少しは考えてみましたかな?
・・・・・・・・・・・・・・・
さて、「淮南子」のこの文章、意味が通じない、というのは古来からの注釈者たちの悩みのタネでした。
これについて、一応の回答を見出したのが、民国十年(1921)に「淮南鴻烈集解」を著した安徽・合肥のひと劉文典です。
劉文典は、宋代の「太平御覧」に引かれているこの章の文章が
以兎之走、使大如馬、則逐日追風。及其為馬、則又不能走矣。
となっているのに注目しました。
本来、「太平御覧」のように古い書籍の記述を事項別に集め直して百科事典のように編纂した「類書」といわれるタイプの文書は、原典に改変を加えて蒐集している可能性もあるので、「類書」にこう引いてあるから原典はこうだったはずだ、という証拠にはなりません。
たとえば、「逐」←「逮」、「追」←「帰」の変更は、より意味をわかりやすくするために「太平御覧」の編者たちが改めた可能性もあります。
ただ、「大」←「犬」の部分は、ほかの宋代の引用でも共通して「大」になっているので、少なくとも宋代に使われていたテキストは「大」と書いてあった可能性があります。そして、「犬」を消滅させて「大」にしてみると、一応意味が通じるのです。
兎の走を以て、大なること馬の如くならしめば、すなわち日を逐(い)風を追わんか。その馬たるに及べば、すなわちまた走るあたわざるなり。
ウサギの走力をそのままにして、ウサギの大きさをウマぐらいにしてやれば、太陽に追いつき、風に追いつくこともできるのではないだろうか。しかし、本当にウマになってしまったら、そんなに走ることはできない。
わーい。
★ウサギは「体が小さい」という「足らないところ」があるので、それを克服するためにウマよりも速く走れるように進化したのである。しかしウマのような大きさにしてやったら、もう「足らないところ」が無いので、ウマぐらい走れればよいから、ウマぐらいにしか走れない。
ということなので、消滅させるのはAのワンコでちたー。
めでたしめでたし。
・・・・・・・・・と、そこへ、
「異議あり!」
と言い出したひとがいます。
近人の蒋禮鴻さんで、1956年に「淮南子校記」を著して、
兎大如馬、何以必其逮日帰風。及兎為馬、走不速則或然、何遽不能走。皆不可解。
兎、大なること馬の如くならば、何を以て必ずそれ日に逮び風を帰わん。兎の馬たるに及んで、走ること速からざるはすなわちあるいは然らんも、何ぞにわかに走るあたわざるや。みな不可解なり。
ウサギがウマのように大きくなると、どうして太陽のところにたどりついたり、風を追いかけたりすることができる、と考えるのだろうか。また、ウサギが本当にウマになったら、走る速度がそれほどでもない、ということはあるかも知れないが、本文は「走ることができない」と言っている。いずれもワケがわからないではないか。
と文句をつけやがったのです。
そして、次のような仮説を立てた。
「大」は「犬」のままでよろしい。「如馬」という文字は「加騖」の誤記ではないか。
この説のとおりに書き換えますと、
以兎之走、使犬加騖、則逮日帰風。及其為馬、則又不能走矣。
兎の走を以て、犬をして騖(ブ)を加うれば、すなわち日に逮び風を帰わん。その馬たるに及べば、すなわちまた走るあたわざるなり。
「騖」(ぶ)は、「はしる」「走り回らせる」。
ウサギを走らせて、さらにワンコをその後ろからけしかければ、ワンコはウサギを獲ようとして、まるで太陽のところまでも行こう、風にも追いつこうとばかりに走ることであろう。ところが、ウマに追いかけさせようとしても、ウサギに興味が無いから走ろうともしないであろう。
うひょー。
★イヌはウサギが欲しいから、一生懸命走るが、ウマは別に欲しくないので追いかけない。「不足」というのは「欲しいもの」というぐらいの意味なのである。
これだと、前の方の「ウマ」が消滅しますが、一応ワンコもウマもウサギもいますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さてさて、三匹ともいても意味は通じるようになってしまいました。せっかく問題を出したのに、問題の基礎が崩れてしまい、おいらの挑戦は敗北に終わったのだ。そして明日はもう日曜日。ということは、明後日はもう・・・。