週末。実質二週間ぶりの休日ですよ。かなりの開放感。
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開放感を味わいながら、自由人・肝冷斎は漢文を読みます。
・・・烏岱雲は突然、一言「小姐」(おじょうさん)と呼びかけると、前方に歩み寄ってきて、両腕で抱きついてきたのです。
素馨着了急、喊道、什么野人、敢這等無礼。
素馨は着了急に喊び道(い)う、「什么(いか)な野人、あえてこの等の礼無き」。
素馨は大慌てで叫びました。
「や、やめて! なにをなさるの? あなた、どういう野蛮人なの、こんな無礼なことをするなんて!」
ん? なんだなんだ?
烏岱雲云う、
「おれは烏という者、毎日あんたの兄さんと一緒に読書している同窓の書生さ。今日こんなところで小姐(おじょうさん)に会えたのは、本当に奇縁というものだぜ。
這里無人到来、就喊也不中用。
這里に人の到来する無し、すなわち喊や用にあたらず。
ここには誰も来やしない。どんなに泣き喚いたってどうにもならねえのさ」
ちなみに、近世小説文なので日本古語へのいわゆる「読み下し」は本来ムリなのですが、ここはフンイキを味わっていただくためにムリに読み下してみております。
一頭説、一把将素馨撳在榻上、将口対着桜桃、以舌送進。
一頭説し、一把に素馨を将いて榻上に撳し、口をもって桜桃に対着し、舌を以て送進す。
などと言いながら、一気に素馨のからだをベッドの上に押し倒し、自分の口を彼女の「桜桃」に押し付けると、舌を送り込んできたのでございます。
「い、いや・・・ん」
む? むむむむ?
烏岱雲は素早く素馨の下着を剥ぎ取ると、
露出這个嫩紅桃子来、腰間挺了這根丈八蛇矛、便思衝鋒陥陣。
この嫩紅桃子を露出せしめ来たりて、腰間にこの根丈八蛇矛を挺了し、すなわち鋒を衝きて陣を陥さんと思う。
むきだしになった「嫩らかな紅の桃の実」に向け、腰のあたりに一本の「一丈八尺の蛇のような矛」をおったてて、きっさきを突っ込んで敵陣を落とそうとするわけなのでございます。
むむむむむむ・・・・・(「嫩紅桃子」「丈八蛇矛」については註釈はいたしませんので念のため)
素馨はこんなことを望んでいたわけではなかったのでございますが、彼にきつく抱きしめられて逃れようもない状況であります。その中で、視線にこの一物(「東西」)をとらえると、
一発驚得魂不附体、暗想道、今番我是死了。
一発驚きて魂の体に附せざるを得、暗に想道するに、「今番、我これ死了せん」と。
あっと息を飲むほど驚ろいて、もう魂飛び去って心もそぞろなありさま、ひそかに思うに
(す、すごいわ・・・。あたし、死んじゃうかも)
もはや乱れに乱れて、纏足した小さな足をばたつかせるばかり・・・。
以下略。
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清・庾嶺労人「蜃楼志」より。ちょっと開放感を抱きすぎました。以下続きますが、こどもは読んではいけませんね。おとなになって漢文をマスターをすると読めるよ。
なお「蜃楼志」はこういう「自然主義」的な興味溢れる大人の文学ですが、嘉慶九年(1804)の刊、作品中に広東語が多出することから作者の庾嶺労人は広東人であろうと推測されます。ただし庾嶺労人は口頭で語っただけで、それを文章にしたのは禺山老人というひとだ、と念を入れて作者不詳にしてあります。もちろん清朝官憲により発禁になったが、根強い人気があって嘉慶十二年(1807)、咸豊八年(1858)に再刊されているよし。再刊本では、
蓋世無双情中奇(この世にならびもなき愛の物語)
というのがキャッチコピーになっているそうです。
ということで、おいらはこんな自然主義的文学を読むために漢文を読むようになったというわけでもないのですが、せっかく読めるので今日の更新は以上にして、続きを読もうかな・・・。今日ははじめてインフルエンザの予防接種を受けたので過激な運動は避けるように言われたから早く寝ないといけませんしね。うっしっし。うっしっし。うっしっし。