日米中、北朝、タイ、日本国内・・・あちこちコナくさくなってきておりますよ。
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・・・の話はよそにいたしまして、今日は石でできた亀の話でございます。
石碑の下に石亀が彫られることが多い。亀は一万年も生き、また重いものを背負うことができるので、石碑を万年に遺そうと亀(それも石で出来ているのですからその齢は永遠であろう)に背負わせるのである。特に亀の中でも石碑を載せるのが得意なのがいてこれを贔屓(ひきいき)といい、これが「ひいき」の語源である、とも申しますが、閑話休題(それはさておき)―――。
晋のころ、
海畔有大石亀。
海畔に大石亀有り。
とある海辺に巨大な石製の亀があった。
これは戦国時代の発明家・魯班が作ったものだと言われ、いかなる仕掛けになっていたのか、
夏則入海、冬則復止於山上。
夏にはすなわち海に入り、冬にはすなわちまた山上の止まる。
夏になると海に降りて行って水中に入り、冬になるとまた山上に登ってくるのだ。
これを聞いて、陸機は感じて詩を作った。曰く、
石亀常懐海、 石亀、常に海を懐(おも)う、
我寧忘故郷。 我、なんぞ故郷を忘れんや。
石で作られた亀でさえ、つねに(亀であるところの)自分が生まれた海のことを思っているのだ、
生身の人間であるわたしが、どうして故郷の呉の地のことを忘れることができようか。
と。
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梁・任ム「述異記」より。
もしかしたらこのカメは季節による潮位の変化の大きな海汀線に置かれていたのかも知れません。カメが動くのではなく海岸線が動くので、季節によって陸上にあるようにも海中にあるようにも見えた、とかかんとか合理的に理解したいひとはこじつけるしかないであろう。
―――またいう、
石氏の後趙(五胡十六国の一。319〜351)の時代、山東・臨邑の町の北郊に燕公の墓碑が石亀の上に建てられていたが、
此亀夜常負碑入水、至暁方出。
この亀、夜に常に碑を負いて水に入り、暁に至りてまさに出づ。
この亀は、夜になると碑を背負ったままでいつも水中に入って行き、夜明け前になるとまた出てきてもとの場所に戻るのであった。
人間にバレるまいと思っていたようだが、
其上常有萍藻。
その上に常に萍藻有り。
いつも浮草や水草の類が着いている。
「なぜだ?」
このことを疑問に思っていたひとがいた。
このひと、石亀を見張っていると、夜中になって
果見亀将入水。
果たして亀のまさに水に入らんとするを見る。
なんと石亀が水に入ろうと移動するのを見つけたのである。
驚いて、
「みんな来てくれー!」
因叫呼。
因りて叫び呼ばう。
このことを知らせるために叫んで人を呼び集めようとした。
一方、この様子を見て、
亀乃走。
亀、すなわち走(に)ぐ。
亀はあわてて逃走し、元のところへ戻ろうとした。
このとき、
墜折碑焉。
碑を墜折せり。
背中に背負っていた墓碑が折れ落ちて、水中に没してしまったのである。
このため今でも臨邑の北郊には、
碑尋失、唯趺亀存焉。
碑ついに失われ、ただ趺亀のみ存せり。
碑は無いのに、ただ碑を背負っていた亀の石像だけが遺されているのである。
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唐・段成式「酉陽雑俎」より。
石の亀のようにゆっくりとやりたいものですが、石の亀でさえ動く、時にはあわてて逃走までするのですから、人間の世界がつねに騒がしいのもしかたないのであろう。