平成25年7月8日(月)  目次へ  前回に戻る

 

月曜日ですが、今週ははやくも頭痛い。

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涼州に祆教の祠があった。祆教(けんきょう)といのは西アジアに淵源を持つ拝火教のことであり、ゾロアスターの教えを奉ずるものたちである。唐の時代にはチュウゴクにもずいぶん拝火教徒がおったということであり、またマニ教徒も多かったらしい。

さて、涼州の祠でのその祭儀たるや、まことに面妖なものであったというのである。

至祈祷日、祆主以鉄釘従額上釘之。

祈祷の日に至るや、祆主、鉄釘を以て額上よりこれを釘す。

祭礼の日になると、拝火教の司祭は、鉄の長い釘を自らの額の上(前頭部である)に差し込み、鎚でこれをがんがんと頭の中に打ち込むのである。

うひゃあ。

直洞腋下、即出門。身軽若飛、須臾数百里。

直に腋下に洞すれば即ち門を出づ。身の軽きこと飛ぶがごとく、須臾にして数百里なり。

クギを打ちこんでいき、ついにその先が脇の下に出ると、「では」とばかりに祠の門から出ていく。そのときの彼はまことに身軽にして飛ぶがごとくに去って行き、あっという間に数百里(一支那里600メートルで計算すると100〜200Kmでしょうか)移動するのである。

彼は涼州の西の境にある祠まで行き、

神前舞一曲即却。

神前に一曲を舞いて即ち却(しり)ぞく。

祠の神の前で一曲の舞を奉納すると、即座に元の方向に出発する。

そして、

至旧祆所乃抜釘。

旧祆所に至りてすなわち釘を抜く。

もとの祠まで戻ると、そこでようやく頭に差し込んだクギを抜いてもらうのであった。

ここで神通を失うのであろう、彼は倒れ、

臥十余日、平復如故。

臥すること十余日にして平復もとの如し。

十日あまりの間寝込んでもとに戻るのであった。

彼がクギを頭に刺したままで二つの祠を往復するのは、両方の祠で参拝していたひとたちが何度も見たことであるからたしかであろう。

しかし、なぜそんなことができるのか、なぜクギを頭から脇の下まで刺しても何とも無いのか、

莫知其所以然也。

その然るゆえんを知るなきなり。

その理由は誰も知らないのである。

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ああ、痛そうでイヤだなあ。わたしの頭痛なんか大したことない気がしてきました。でもマネしてはいけませんよ。昨日に引き続き「朝野僉載」巻三より。

ちなみに本日は妙齢お二人とそば食った。特に記録しておきます。

なお、平凡社・東洋文庫41「沖縄の犯科帳」比嘉春潮・崎浜秀明編訳(昭和40.4初版)読了す。おもしろかった。那覇の古書店で買ったものですが、前の持ち主の方が苗字も何も書かずに「義彰」とだけ署名しておられます。それも達筆で。いったいどんな人であったのだろうか、というのが気になる気になる気になる〜。

 

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