平成25年6月14日(金)  目次へ  前回に戻る

 

湖南の衡陽に「回雁峰」という山があります。

伝えられるところによれば、秋に北の国から渡ってきた雁は、この峰に至って止まり、春になればこの峰から北に帰るのだ、と。いにしえの人は雁の足に結びつけて遠く手紙を取り交わしたというから、この「回雁峰」がかつての「中国」の南の果て。これよりさらに嶺南の瘴癘の地にまでさまよう旅人には、遠い北のふるさとからの手紙さえ届かない。

このことを「衡陽雁断」(衡陽で雁のたよりも断たれる)といいならわす。

さて。

春風一夜到衡陽。  春風一夜、衡陽に到る。

昨夜、春の風がこの衡陽のまちまでやってきた。

雁は北に帰る用意をはじめる。

楚水燕山万里長。  楚水・燕山 万里に長し。

湖南を流れる楚水の川とはるかな燕地の山やまと、その間は数万里。

「燕」はいまのペキンあたりの古名。

雁はこの遠い距離を飛んでいくのだ。せっかく春になったのに。

そして、江南の地は、唐の韋荘「菩薩蛮詞」

人人尽説江南好、游人只合江南老。  人人ことごとく説く、江南は好ろし、游人ただまさに江南に老ゆべし、と。

 この世のひとはみんな言う、「江南はすてきなところ、旅行くひとよ、江南にとどまって老いていくのがよろしかろう」と。 

というように、古来、詩人と遊冶郎たちの称賛してやまぬところなのに。

以下、雁のことばに仮託す。

莫怪春来便帰去。  怪しむなかれ、春来たるもすなわち帰り去るを。

江南雖好是他郷。  江南は好ろしといえどもこれ他郷なり。

 不思議に思わないでほしい、春になったのに帰って行くことを。

 江南はまことにすてきなところ、けれど故郷ではないのだから。

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明・王恭「春雁」という詩でした。

寓思郷之情懐、造意新頴。

思郷の情懐を寓し、造意新頴なり。

ふるさとを思うキモチを雁の言葉に仮託し、新しい境地を開いた。

と評される(杜貴晨「明詩選」(人民文学出版社 2003))。

王恭、字・安中、元の至正十四年(1354)、閩県(福建・福州)の生まれ、自ら「皆山樵者」と称す。明に仕え、永楽四年(1407)には翰林待詔として「永楽大典」の編纂に関わっていたらしいが、後に職を辞して閩に帰り棲み、「白雲樵唱」「草沢狂歌」などの詩集を遺した。没年不詳。

―――ひとびと、ことごとくいう「沖縄は好ろし」と。まったくです。福岡もいいけど。おいらは沖縄に老いていくよ。

ところで、このHP、尊敬する同僚のN氏に見つかっているぽい。恥ずかしいです。

 

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