今日は「暑いですねえ」と言いながら老仙人たちが茶飲み話をしているそばを通り抜けようとしたら、そのうちの一人に
「ちょっと待つのじゃ」
と呼び止められた。
「はあ? なんですかな」
と立ち止まると、老仙人たちは
「こいつでよかろう」「そうじゃな」
とこそこそと話している。
「なにがよかろうなのですかな」
「いやいや、これを・・・こうじゃ」
仙人の一人が杖を持ち上げ、突然わしのあたまを「ぽこん」と叩いた。
「わわ、なにをするのですか」
と慌てているうちに、あれ?
視線がどんどん低くなってしまった。さっきまで自分の目線より少し低いと思っていた老仙人たちが、わしよりでかくなった。背丈がずいぶん縮んだようである。
「あれれ? どういうことでちゅか?」
おまけに舌が短くなったみたいである。
「わはは、肝冷斎よ、おまえを「童子」にしてやったのじゃ」
「なんと」
わしは童子にされてしまったのです。
これはありがたい。
童子はどこにでももぐりこめるし、何をしても叱られません。「童子だから仕方ないか」で終わってしまいます。
「わあい、うれちいでちゅう」
こうしてわしは老仙人たちに仕える童子となったのである。
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ところでわしは知識人なのでいろんなことを知っています。
今日は八月七日でしたが、七日は毎月「七夕」なんだよ。
唐の玄宗皇帝は八月五日生まれで、その日が誕生節となっておりましたが、この日の祝辞を読んでみると、
開元十六年八月端午、赤光照室之夜・・・。(張説)
開元十六年八月端午、赤光室を照らすの夜・・・。
開元十六年の八月五日、赤い光が部屋を照らし出す夜にございます・・・。
月惟仲秋、日在端午・・・(宋m)
月はこれ仲秋、日は端午にあり・・・。
八月はもう秋の半ばの月、その最初の五日の日に・・・。
などとあり、
凡月之五日皆可称端午也。
およそ月の五日はみな端午と称すも可なり。
どの月の五日も、すべて「端午」と呼ばれていたことがわかろう。
●五月五日=端午と思っていました → 実はどの月の五日も端午である。
これはわたしが発明したのではなく、宋の大知識人・容斎先生・洪邁の発見したことである。(「容斎随筆」巻一より)
ということは、
○七月七日=七夕と思っていました → 実はどの月の七日も七夕である。
ということにもなるのである。
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「・・・と考えられるではありまちぇんか!」
と童子のわしが回らぬ舌で言いますと、普段わしの姿をさも軽蔑したように避けるお嬢様たちまで、
「まあなんという賢こそうな子かしら。おやつをあげましょうねえ」
と言いながら、その柔らかなてのひらでわしのあたまをナデナデするのだ。
「きもちいいでちゅー、もっともっとでちゅー」
わしはにやにやしたが、童子であるから叱られることはないのである。
「では、おいら、歌をうたいまちゅ」
わしは調子に乗って、子どものころによく口ずさんだあの歌を歌った。
つめくさのはなの 咲く晩に
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏まつり
酒を呑まずに 水を呑む
そんなやつらが でかけて来ると
ポランの広場も 朝になる ・・・
(―――朝になったらまた童子でなくなって職場に行かねばならぬのだ。わしの夏まつりはまだまだ来ぬのだ)
わしは明日のことを考えると、突然おとなのように苦い顔をせねばならなかった。