平成23年5月25日(水)  目次へ  前回に戻る

 

これから学校の受験や漢字○定をお受けになったりするひともありましょうから、今日は「四字熟語」の勉強をいたしますよ。

●次のうち、正しい使い方であるのはどれでしょうか。(3点)

ア やったな、「明日黄花」だ。おれたちの粘り勝ちだぜ。 

イ やったな、「明珠投暗」だ。おれたちの粘り勝ちだぜ。

ウ やったな、「明月西沈」だ。おれたちの粘り勝ちだぜ。

漢字○定をお受けになられるような方々はこれぐらいの「四字熟語」なるものはすべて自由自在に使いこなせるレベルなのでしょうなあ。そうでなければ恥ずかしくてお受けになれませんよね。わはははははh

もしももしももしも、ちょっとだけ度忘れしてしまって困っているひとがいたときのために、ちょっとだけ解説ちておきまちょうね。

まずはアの「明日黄花」についてでちゅ。

宋の東坡居士・蘇軾が九月九日・重陽節(いわゆる「菊の節句」)の日(太陽暦では十月後半のイメージであります)、公的な宴会の席で親しい友人に出会ったが、二人ともお偉方との応接があってねんごろに語り合うこともできなんだ。

そのことをたいへん残念に思うて、帰宅して友人に詩を贈った(「九日次韵王跫」)。その詩にいう、

相逢不用忙帰去、 (あい逢うことを用いず、忙(せわ)しくも帰り去りぬ、)

明日黄花蝶也愁。 (明日の黄花 蝶もまた愁わん。)

おまえとせっかくすれ違うたに、その機会を利用できず、あわただしく帰ってきてしもうたわい。

明日になれば黄色い花にも、蝶もまた物悲しくなろうになあ。

「黄花」とはもちろん、九月九日が盛りである、とされる菊の花のこと。盛りの菊の花を賞し合いながらおまえさんと一献する機会を逃してしまった。明日、九月十日になれば、菊の花も凋みはじめ、秋の蝶も歳の最後の花である菊がだんだんとうつろいゆくのを悲しく思うはず。ムシにすぎない蝶でさえ悲しいのだから、われらはもっと悲しい。もう佳き季は帰ってこないのである。

東坡の詩の中での「明日黄花」は、菊の花の盛りを過ぐしてしまったことを残念がる言葉に過ぎません。

しかし、後代、元の張可久の曲(「折桂令・九日」)中にこの句を採っていう、

人老去西風白髪、蝶愁来明日黄花。

(ひとは老いて西風に白髪して去り、蝶は愁いて明日の黄花に来たる。)

 あのひとは老いて、秋風の中、白髪になって消えて行った。

 蝶が悲しそうにやってきたときには、もう菊も凋み始めている(ように、人生のもっともよきときをむなしく過ごしてしまって、気が付いたときには手遅れになっていたのだ)。

と、青春の追憶に用いて後、「明日黄花」はひとの老い衰えて後悔することを喩えるのである。

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さあ、ア)は正しい用い方でしょうか?

・・・よくよく考えると、案外正しいような気もしてきました。イ・ウについては明日以降を俟て。

 

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