平成22年7月21日(水) 目次へ 前回に戻る
太古に伏羲が作った瑟(シツ。おおごと)は五十弦あったというが、(文化神の)黄帝がこれを(音楽女神の)素女に弾かせたところ、
哀不自勝。
哀にして自ら勝えず。
その音色あまりに哀切、素女自身が悲しみのために弾じえなくなってしまったほどであった。
その音を聴いた人民ども、涙滂沱として仕事も手につかぬ始末。黄帝もまた悲哀の念に捉われてしまった。
黄帝は、
「この楽器は人民のためになるものではない」
と考え、
乃破五十弦為二十五絃。
すなわち五十弦を破りて二十五絃と為す。
ついに、五十弦のおおごとを真っ二つに割って、二十五絃に減らして用いさせた。
のだそうでございますが(漢書による。なお、五十絃のものを特に「珡」(キン)というとも言う)、瑟(おおごと)がこのように五十弦→二十五絃となったのに対しまして、琴(キン。普通のこと)の方は、どうなっておるのかと申しますに(以下、宋・何子遠の「春渚紀聞」巻八による)、
爾雅大琴謂之離、二十七絃。
「爾雅」に大琴、これを離といい、二十七絃とあり。
古代の辞書である「爾雅」に「「離」とよばれる大きな琴は、二十七絃であった」とある。
そうで、これが記録上の最古のものであろう。(なお、この「離」は「琴」として大なるものであり、「瑟」の一種であるとも分類される)
また「礼記・楽記」によれば、伝説の天子・舜は
弾五絃之琴而天下治。
五絃の琴を弾じて天下治まる。
五絃の琴を弾いて、音楽で天下を平穏に治めた。
これに、舜の義父の堯(注)は、
加二絃以合君臣之恩。
二絃を加えて以て君臣の恩を合す。
(五行を現わす五絃に加えて)二本の絃を加えて七弦とした。これは、(二絃を加えて)君と臣の二つの調和を象ったのである。
注:「春渚紀聞」はこう書いていますが、「爾雅疏」など一般には、二絃を加えたのは周の文王と武王、あるいは周公だとされています。ので、以下、周の文王説を「通説」とする。その方が時代の順番も合ってすっきりするところ。)
後漢の蔡邕は
益之為九。
これを益して九と為す。
さらに増やして九弦にした。
これより先、漢の高祖が秦の咸陽宮に入ったとき、
得銅琴十三絃。銘之曰、璠璵之楽。
銅琴十三絃なるを得。これに銘して曰く「璠璵(ハンヨ)の楽」と。
銅でできた琴を得たが、これは十三絃であった。この琴には銘があり「璠璵の楽器」と刻まれていた。
という。(「西京雑記」による)
なお、「璠璵」(ハンヨ)というのは「説文」によれば、魯の国の宝玉の名である、といい、孔子がこれを見て、「美なるかな、璠璵や・・・、近くでみればおおごとのようじゃ、云々」と言うたそうである。
また、唐の時代の伝奇にいうに、馬明生なるひとが仙界に赴いたとき、
見神女於玉几上弾一絃琴、而五音具奏。
神女の玉几上に一絃琴を弾ずるを見るに、五音具奏せり。
女神さまが玉の卓の上に一絃しかない琴を弾くのを見た。一絃しかなかったが、五つの音程を演奏することができるのであった。
・・・・・ということで、以上を順番に並べますと、二十七絃、五絃、七絃、九絃、十三絃、一絃、の例がある、ということになります。
それぞれ意味のある制式であろうと思うのですが、ゲンダイ(宋の時代のチュウゴク)まで伝わっているのは七絃の琴でございます。
余於是知法出乎堯者、雖亘千古而無弊、非智巧所能変易也。
余、ここにおいて法の堯に出ずる者は、千古に亘るといえども弊無く、智巧のよく変易するところにあらずと知れり。
わしは、このことから、堯の定めた制度は、数千年の時代を経ても問題を起こさないものであり、ちっぽけな知恵や技巧で改変することのできないものであることを知ったのである。
(注)通説では周の文王・武王の定めた制度ですけどね。
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一絃ではテトラコルドにならないではないか、とか、陶淵明の無絃の琴など、本気になったらいろいろ語らねばなりませんが、今日はもう時間が・・・うわ、またこんな時間(涙)。
わたくしはもともとこんなことを並べて書いているのが大好きなのです。三度のメシほどではなくても四度目のメシよりは好き、なぐらいです。ところが現実のわしはこの年になっても、毎日あほばかまた遅刻だからだめなさけないと叱られるのである。哀にして自から勝えられなくなってまいりますよ。