新しい王朝が建ったとき、前王朝に節を尽くして新王朝に仕えないひと。これを「遺民」(「前王朝が遺していった民」の意)といいます。
明太祖・朱元璋が即位して、洪武の年号を建てたのは戊申年(1368)ですが、この年の元日、
月明山怨鶴、 月明かにして山に怨める鶴あり、
天黒道横蛇。 天は黒くして道に横たわる蛇あり。
月が出た。一声、山中に鶴が不気味な声で啼く。世界を呪うかのように。
空は暗い。わが行く道には大蛇が横たわる。われらの未来を塞ぐかのように。
という暗い詩を作ったひとがいました。王逢、字・原吉、江陰のひと。
⇒ところで暗いといいますと、こないだ車の中で中島○ゆき(初期)、森田童○、山崎○コを連続して聞いた。夜闇の中を走りながらだんだんイヤになってきた。やっぱり山崎が一番来てますね。歌詞としては別に「暗く」もなんともない前後の脈絡の無い「しっちゃか」なものなのですが、それをすごい一生懸命歌っているので「暗い」とか何とかいうよりイヤになってくる。
閑話休題。
王原吉は元の至正年間(1341〜68)、詩文の能力を以て名を知られ、元王朝の重臣から官職に就くよう薦められたが病気と称して就かず、至正後半の戦乱を避けて上海の烏山に草堂を築いて「最濶丁」(「もっともヒマな植木屋さん」)と名乗って隠棲した。浙江に拠点を置いた張氏政権に誘われたが出でず、明の建国に至るのである。
洪武十五年(1382)になって、その文学に能あるを以て明朝に召され、担当の者に無理矢理連行されて南京に至った。人事を担当する吏部の大臣の前で父母が老いて明日をも知れぬことを説き、頭を地面に何度も打ち付け、額から出た血と涙が頬に入り混じって流れるありさまで、結局吏部に召されただけという扱いで帰郷してきた。実は彼はこの時すでに数えで六十を過ぎており、父母はともにこの世にいなかったともいう。
二十一年(1388)、元旦に自ら墓碑銘を製作すると、その月のうちに卒した。ちょうど七十歳であった。
――諸書にはその死の様子を伝えぬが、おそらくは人世においてすべき措置をすべて為し、子孫の行く末も見届けた上で、致仕の年(王朝に仕えているひとの辞めるべき年齢)に達したこの歳に、前朝に殉じて自ら裁したのである。
晩年の詩にいう。
孺子成名狂阮籍、 孺子名を成す、狂阮籍、
伯才無主老陳琳。 伯才主無し、老陳琳。
小僧っ子に名を成さしめてしまったのだ、この頭のへんな阮籍は。
覇者の助けとなる才能を持ちながら使うてくれる主人が無いまま今に至ってしまったのだ、この老いぼれた陳琳は。
阮籍は竹林の七賢の筆頭扱いの阮籍である。白眼視や嗜酒、能嘯で名高いが、彼は時に自ら車を駆り、道窮まって泣いたといい、暢ばすことのできぬ志があったひとであったのである。
かつて広武観に登り、劉邦と項羽の楚漢の戦いの跡を見渡したとき、
時無英雄、使豎子成名。・・・@
時に英雄無く、豎子をして名を成さしむ。
そのときには英雄というべき者がいなかったのだ、だから小僧っ子に名声を成さしめてしまったのだ。
と嘆じたという。(晋書巻49「阮籍等伝」)
ちなみに、「豎子」=「孺子」は、漢高祖の謀臣、張良(子房)のことを指します。張良は亡命中に、黄石公という老人が橋の下に落とした履を拾いに行かされて、「はいはい」と拾いに行った。その外柔らかにして内剛なる性質を知った黄老人は
孺子、可教。
孺子、教うべし。
小僧、どうやら教えてやる甲斐がありそうじゃな。
と言いまして、その後少し紆余曲折がありました後に、張良に自らの用兵の術を教えた。・・・という。(史記・留侯世家)
阮籍の@の語は、張良やその同時代人たちを嘲っているのではない。ということはみなさんにもわかりますよね。
「あの時代は英雄だらけだったが、わしもそのタイプ。ああ、あの時代に生まれていたら、張良みたいにでかいことやってみせた・・・かも知れないのに・・・」(今の時代でも、おれにいろいろ任せてくれたらでかいことをしてやる・・・かも知れんのに・・・)
と言う気持ちの言葉である。
居酒屋で
「おれも戦国時代に生まれていれば・・・」
「幕末に生まれていれば・・・」
とのたまわっている方は今でも少しはいるのでしょうから、その類だと思うと大したやつではない気になってきますが、@の言葉はその類です。大河なんとかを見てバカになった類に近い。とはいえ、これは政治的野心の言葉である。
陳琳は字・孔璋、漢末、盧陵のひと。はじめ何進、次いで袁紹、さらに魏武侯・曹操に仕えて、その軍事のことを起こすや檄文は多く陳琳の手に成ったという。(三国志・魏志・巻21)
魏武侯が頭痛で苦しんでいるとき、ベッドの中で陳琳の起案した、ひとを奮い立たせるような檄文を読んで、
翕然而起、曰此癒我病。
翕然として起ち、曰く「此れ、我が病を癒せり」と。
突然起き上がり、ベッドから離れ、「どうやらこの文章がわしの病気を治してくれたようじゃ」と言うた。
のは名高い。(←これは「三国典略」という書にある話だ、として「蒙求」下巻「陳琳書檄」の条の注に引かれている)
「老いた陳琳」というのは、檄文を書く能力を持ちながら、そのような用いられ方をせずに老いた文人をいうのである。
明王朝が建国されてからほぼ二十年、華北にあった元朝の皇帝が長城の外に追われて(「庚申北遁」といいます。庚申年は1380)からも十年近く経って、なお王原吉の抱いていた思いがどのようなものであったか、この詩句で知れるであろう。
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これは「列朝詩集小伝」から採った。
「列朝詩集小伝」は、清の銭謙益(牧斎先生)が明の歴代(「列朝」)の詩人の詩を集めた「列朝詩集」を編んだ際、これに各詩人の短い伝記(「小伝」)を付した。この付された部分だけを彼の一族の銭陸粲というひとが出版したもの。だいたい銭謙益は明の萬暦のれっきとした進士さまで清の南下後も南明といわれる抵抗政権の礼部尚書(文部大臣)まで勤めて、部下に「死んでこい」と言った立場のひとであり、儒学的には、生き残って清朝の時代を迎えても、本来なら「遺民」として隠棲していなければならない立場のひとですが、清に投降し、礼部侍郎・管秘書院事(文部次官兼内閣記録局員)になって、明代の記録の整理に当った。その出処進退、大いに批判されたひとでもある。彼がどういう気持ちで二百年前の「元→明」の代替わりの際の「遺民」たちの伝記を編んだのか、かなり興味がある・・・ひともいるかも知れません(いないとは思いますが)ので、今〜来週はあと三四人の伝記を読んでみたいと思います。
なお、遺民を採り上げるのは、「政権交代」とは何の関係もありません、ので、念のため。