↓その世界はこの中にあるのかも知れぬ。
今日は帰りの電車の中で「北夢瑣言」を読んでおりまして、
「おお」
と唸るタメになる話があった。
ああ、このお話をみなさまと共有してタメになりたいのう。
とわしは思いましたよ。
しかしながら、
子曰、道聴而塗説、徳之棄也。
子曰く、道に聴きて塗(みち)に説くは徳の棄なり。
大先生がおっしゃった。
道すがら人に聴いたことを(自分の説のように)道すがらに人に説く。そんなことでは、もはや向上することは無いぞ。
と「論語」(陽貨篇十七)に書いてあります。
帰りの電車の中で読んだことをすぐにひとに伝えたのでは、大先生の御批判は免れますまいし、どうせ誰かが教えてくれと言っておられるわけでもない(←読者数の少なさを自虐的にほのめかした)ので、また今度気の向いたときにご紹介しましょう。
今日は以下のごとき言葉を聞いて泣きながら寝てください。わたしもそうしますのでな。
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流年不復記、但見花開為春、花落為秋、終歳無所営、惟知日出而作、日入而息。
流年また記せず、ただ花の開くを見て春と為し、花の落ちるを秋と為すのみ。終歳営むところ無く、ただ日の出づるを知りて作(おこ)り、日入りて息うのみ。
流れ行く一年、何か記憶に残ったことがあるだろうか。
ただ、花の開くのを見て春と知り、花の落ちるのを見て秋と知ったばかりであった。
一年中、なすべきことは何一つ為していない。
ただ、日が出れば起きて働き、日が沈むと帰って休息していただけであった。
たいていのひとはこんな感じですね。
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若想銭而銭来、何故不想。若愁米而米至、人固当愁。暁起依旧貧窮、夜来徒多煩悩。
もし銭を想いて銭来たるならば、何故にか想わざる。もし米を愁いて米至るならば、ひと固よりまさに愁うべし。暁に起きるも旧に依りて貧窮、夜来たりて徒らに煩悩多し。
もしカネのことを念ずるとカネがやってくるのであれば、カネのことばかり考えることにするであろう。
もしメシのことを心配しているとメシがやってくるのであれば、みんなメシのことばかり心配するであろう。
実際にはカネのことを念じメシのことを心配しても、やってこないので、朝起きてみても昨日どおり貧乏であった。そして夜になったら、また無駄にカネのこととメシのことばかりを悩んでいるのじゃ。
もうイヤになってまいりますね。
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偶坐蒲団、紙窗上月光漸満、樹影参差、所見非色非空、此時雖名衲敲門、山童且勿報也。
たまたま蒲団に坐するに、紙窗上に月光漸く満ち、樹影参差として見るところ色にあらず空にあらず、この時名衲(のう)門を敲くといえども、山童しばらく報ずるなかれ。
(山中の寺院で)座布団に座ってぼんやりしていると、障子窓に月の光が段々と広がり満ちてきた。樹の枝の影もばらばらと映り、今、この世界は実在しているのか幻覚なのであるかわからぬ。
こんなときは、どんな優れた坊主が訪問してきたとしても、小僧よ、しばらく呼びに来てはならんぞよ。
よし。がんばってこの世界に行くことにしよう。みんなも一緒に行こうぜ。
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いずれも明・陳眉公編纂の「小窗幽記」巻五より。画題にしたいのですがこのところはそのゆとりがない。というか誰も褒めてくれぬのでやる気にならん。なお、二番目のはお気に入りなので、四年ぐらい前にも紹介していると思う。