平成20年10月Aの大先生
今週は漢詩大好きのワン大人のお話を伺う。
10月6日(月) 目次に戻る
○杜甫「同元使君舂陵行」
ひいひいと呻りながら詩を作ったぞ。
墨が薄かったし字はひね曲ってしまったぞ。(まあこれでもよかろう。)
わしはあのひとの危うい心の中の苦しみの歌に深く思うところがあったので、あのひとを知る誰かが聞いてくれればいいと思って、この詩を作ったのだ。
作詩呻吟内、墨淡字敧傾。 詩を作る 呻吟のうち、墨淡くして字敧傾す。
感彼危苦詞、庶幾知者聴。 彼の危苦の詞に感じ、知者の聴かんことを庶幾(ねが)うなり。
大先生曰く、第一回はやはり盛唐の大詩人・詩聖・杜甫の作品から、じゃ。あんまり有名でないのを選んでみた。「元使君の舂陵行に同ず」という五言古詩の末尾四句じゃわん。安禄山の乱のあと、各地を転転としているときに、元結という地方官(使君)の書いた「舂陵行」(舂陵(しょうりょう:地名)の行(うた))という詩に感動し、元結に賛同する意の詩を作った。苦しみ吟じて字がひね曲った、それでも気持ちを届けたい、というところ、さすがに杜甫は巧いといわざるを得んのじゃ。
肝冷斎曰く、墨が薄くて、というのもいいですね。次回はせっかくなのでもっと有名なのにしてください。
10月7日(火) 目次に戻る
○頼山陽「天草洋」
雲であろうか、山であろうか、呉の地であろうか、越の地であろうか。
海と空は同じように青く、一本の青い髪の毛を隔てているだけのように接し合って、水平線が横たわる。
万里のかなたからやってきた船が停泊している。
天草灘だ。
もやが粗末な船窓の向こう側に広がり、日はゆっくりと没して行く。
や、や、や!
波間にちらりと見えたのは、ああ、なんともでかい魚であったぞ。
宵にこの船を照らすのは金星である。まるで月のように明るいのだ。
雲耶山耶呉耶越 雲か山か呉か越か、
水天髣髴青一髪。 水天髣髴、青一髪。
万里泊舟天草洋、 万里舟を泊す天草洋、
烟横篷窓日漸没。 烟は篷窓に横たわって日漸く没す。
瞥見大魚波間跳。 瞥見す、大魚の波間に跳ぶを。
太白当船明似月。 太白船に当りて明るきこと月に似る。
大先生曰く、では今日は有名な詩にしたぞ。特に熊本出身のMT氏などはよくご存知であろう。頼山陽が文政元年、九州一円を旅した(この旅の最後の方で「耶馬溪」を命名したのも有名)際、天草に宿泊して、東シナ海を観望しながら作った詩だわん。
肝冷斎曰く、わたしもこの詩を初めて読んだときは度胆を抜かれました。日本漢詩の表現力に恐れ入った・・・と感じたのですが、最近では年をとってきたので、「なにもこんなに無理して詩にしなくてもよかったのに・・・」と思うようになってきた。肝冷斎も九州滞在中に訪れてみましたが、天草とか甑とか五島とか、おそろしいぐらいに美しい島なのですが、ニホン(東京)のひとびとは、地方の端っこの田舎の過疎地であるこれらの地域は、もう斬り捨ててしまうつもりなのでしょうかねえ。
10月8日(水) 目次に戻る
○陸放翁「初冬雑詠」(その三)
こどものころは本を読むのが好きで、好きで好きでたまらなくてほかのことは何もせずに、
せっかくのメシは冷え、肉料理が乾いてしまうまで、家人が呼びにきても本を読んでいた。
そのまま一生、書物というもので人生を誤ってきてしまったのであるが、いまだにその迷妄から醒められず、
この年になってもまだ紙食い虫となって読みふけっている。・・・ああ、悲しいかな。
児時愛書百事廃。 児の時、書を愛して百事を廃す。
飯冷胾乾呼不来。 飯は冷え胾(し)は乾き呼べども来たらず。
一生被誤終未醒、 一生誤たるもついにいまだ醒めず、
老作蠹魚于可哀。 老いて蠹魚(とぎょ)と作(な)る、ああ、哀れむべし。
大先生曰く、日録の方でも陸放翁を扱ったのでこちらも放翁にした。放翁(1125〜1209)84歳の作品である。少年時代の回顧、彼を呼びにきたのは誰であったのだろうか。誰であったとしてもそのひとはもう生きてはいまい。涙出てくる。そして、自嘲と諧謔をこめた「ああ、哀れむべし」、抒情的でペーソスに溢れて自由奔放、放翁ならではの詩といえるでわん。
肝冷斎曰く、「胾」(シ)は「肉」をはさみで切っている姿で、「切り身の肉」のことですね。生肉なのでしょうか。「蠹魚」は「紙魚」(シミ)のことです。ちなみに放翁が読みふけっているのは古典や経書であって、ファンタジーや冒険小説ではないので念のため。
10月9日(木) 目次に戻る
○雍陶「和孫明府懐旧山」(孫明府の旧山を懐うに和す)
五柳先生はもともと山中のひとでありまして
たまたまほんとに偶然に、俗世にやってきた旅人じゃ。
秋が来て月を見て、もとの世界に帰りたくなったのか、
ふと思い立って籠の扉を開き、飼っていた白い雉を逃がしてやった。
五柳先生本在山。 五柳先生もと山にあり。
偶然為客落人間。 偶然客となって人間(じんかん)に落つ。
秋来見月多帰思、 秋来たり月を見て帰思多く、
自起開籠放白鷴。 自ら起ちて籠を開きて白鷴(はくかん。雉の一種なり)を放つ。
大先生曰く、雍陶は九世紀、唐の時代、四川・成都のひと。役人になったが才を誇って驕るところがあってあちこちで嫌われたという。しかしこの詩はわかりやすくていい詩だわん。「孫」という名の知事さんが故郷のことを思う詩を作ったので、それに唱和して作った詩。「五柳先生」というのは晋の陶淵明(帰去来のひとですな)の自称、ここでは陶淵明に比すべき超俗の知事さんである「孫」さんのことをいっている。
孫知事は、秋が来てふるさとに帰ろうと思うようになって、けれど世務多端ゆえに帰れぬ。まるで籠の中の鳥じゃわい。おお、そういえばわしも籠に鳥を飼っておった。こいつも山に帰りたかろう、と気がついて逃がしてやった、というのだわん。
肝冷斎曰く、わたくしも月を見て帰思多く、そろそろ帰ります・・・と言ってもう何年になることか。しかしいよいよ・・・
10月12日(日) 目次に戻る
○韋応物「秋夜寄丘二十二員外丹」(秋夜、丘二十二員外丹に寄す)
おまえを思う。それは秋の夜のことであった。
ふらふらと歩き、涼しくなってきた空に向かって歌をうたってみた。
山には人っ子ひとりいないのだが、ぽとんと音したのは松ぼっくりが落ちたのだ。
まだ宵の口、隠者のお前は眠ってはいないことだろう。
懐君属秋夜、 君を懐うは秋夜に属し、
散歩詠凉天。 散歩して凉天に詠ず。
山空松子落、 山むなしくして松子落ち、
幽人応未眠。 幽人まさにいまだ眠ざるべし。
大先生曰く、三日間さぼっていたように見えるのじゃが、仕事がたいへんだったりしたのでしようがないのだわん。韋応物は八世紀のひとということだが詳細は不明、玄宗の近衛の士で武人であったが、恩顧ある玄宗皇帝の死を契機に詩を学んだ、ともいう。官は蘇州刺史に至った、ともいうけどよくわからんらしい。その清新な詩風は唐詩随一といわれるのだわん。
肝冷斎曰く、隠者といわれている丘丹さん(一族のいとこはとこの間で二十二番目に生まれたらしく、またこのとき戸部の員外郎(定員外の郎中)であったらしい)は、李太白のいう「丹丘生」と関係あるひとなのでしょうか。
10月13日(月) 目次に戻る
○李白「山中与幽人対酌」(山中にて幽人と対酌す)
おまえさんとふたり、サシで酒を酌むと、山の花が咲きはじめた。
一杯、一杯、また一杯。
わしは酔いました、したたか酔って眠くなってきたぞ。おまえさん、今日のところはもう帰りなされ。
明日の朝、気が向いたら、今度は琴を抱えてやってきなされ。
両人対酌山花開。 両人対酌すれば山花開く。
一盃一盃復一盃。 一盃、一盃、また一盃。
我酔欲眠卿且去、 我酔うて眠らんと欲す、卿(きみ)しばらく去れ。
明朝有意抱琴来。 明朝意有らば琴を抱きて来たれ。
大先生曰く、李太白のあまりにも有名な詩である。特にその第二句、酒のみの対酌する姿を歌って千古の名句といえるでわんわん。
肝冷斎曰く、松尾芭蕉の「松島や」と同じぐらいの名句ですね。
10月14日(火) 目次に戻る
○李商隠「無題」
互いに会うことは難しいあなたとわたしだが、(会ったあと)別れることはさらに難しいね。
東から吹く春の風はけだるく、百千の花という花もみなしおれてしまった。
春の蚕は死のうとしている。(愛という)糸をすべて吐き尽くしてしまったから。
ろうそくは灰になってしまってやっと滴るものを失うのだから、愛も炎のもとが失われて、はじめて涙が乾くのだろう。
相見時難別亦難。 相見る時は難くして別れもまた難し。
東風無力百花残。 東風力無く、百花残(そこな)わる。
春蚕到死絲方尽、 春蚕は死に到りて糸まさに尽き、
蠟炬成灰涙始乾。 蝋炬灰に成りて涙始めて乾く。
大先生曰く、出たー! 獺祭先生・李義山(812〜858)の「無題」詩。若いうちに一度は義山の詩にあこがれるものじゃ。後世ではもうわからなくなったような典故を多用して、読む者によってまったくイメージの違う象徴的な詩を作った晩唐最大の天才詩人だわん。特に「無題」詩のシリーズは、作詩の事情がわからぬので、逆にわれらの想像を刺激していろんなイメージを結ばせる。
肝冷斎曰く、恥ずかしながら、わたくしも青年期に李商隠の詩の洗礼を受けたひとりでございます。わたくしどもから見ると「無力」とか「残」とか「死」とか「灰」とか、近代的ともいうべきシンボルを使って夢幻詩をあやなしているのですが、唐代のひとから見るとまた別の詩的世界を現出していたのでしょうね。この詩なんか、もしかしたら恋愛のうたではなくて、えらいひとの宴席での挨拶かも知れません・・・。
10月17日(金) 目次に戻る
○羅隠「隴頭水」
教えてくれ、隴の近くの川の流れよ、
いったいお前は、毎年毎年いつまでも、何事を恨んでいるのか。
―――ああ、ようやく今、気がついた。そうではなかったのだ。
今の今までこの川のせせらぎが嗚咽の声に聞こえていたが、それはわたしの幻聴だった。
今の今までずっとわたしは、この中で出征兵士が泣いているのかと疑っていたのだ。
借問隴頭水、 借問す、隴頭の水、
年年恨何事。 年々何事をか恨む。
全疑嗚咽声、 すべて疑う嗚咽の声、
中有征人涙。 中に征人の涙あるかと。
大先生曰く、今週は忙しかったでわん。本日はえらいひとに連れてもらってジャイアンツ優勝祝賀会に行く栄誉にも浴したのじゃった。李すんよぷはやはりいいやつみたいだわん。ところで、この詩は出征兵士の悲しみを歌った社会詩ということで有名だが、自分で問うて自分で答えるという漢詩の常套手段を使っていて、冷静に読んでみると変なあたまのひとのひとりごとみたいじゃな。
肝冷斎曰く、羅隠(803〜909)は晩唐の詩人ですが、科挙に落ち続け、生活詠や社会批判に優れた詩を遺した、と言うと何だかえらいひとに見えますが、軽薄でしかも容貌が醜悪であった、ともいい、なかなか身近な気もしますね。ちなみに「隴頭水」は漢代以来の楽府題(替え歌の元歌)ですから、「隴」(長安周辺)の近く、という地名には別に意味はないのです。
10月20日(月) 目次に戻る
○劉後村「漁郎」
川の流れに小舟浮かべた漁師がおりまして。このひと春を自分だけのものにしている。
川の流れのあおあおとしているのが、桃の花で色づいた紅の雲の下に照り映えているぞ。
彼に聞いてみようとする。おまえさんは神仙というものではないのかね、と。
すると聞きもせず答えもせず櫓を押して去っていくこと飛ぶがごとし。
渓上漁郎占断春。 渓上の漁郎、春を占断す。
一川碧浪映紅雲。 一川の碧浪は紅雲に映ず。
問渠定是神仙否。 渠(かれ)に問わん、定めてこれ神仙なるや否やと。
艣去如飛語不聞。 艣(ろ)し去りて飛ぶが如く、語れども聞かず。
大先生曰く、南宋の後村先生・劉潜夫の詩だわん。そんなに簡単に神仙が見つかるもんか、と言いたいが、逃げて行ったのだから図星だったのじゃろう。
肝冷斎曰く、けしからんことですな。
大先生曰く、わしもそろそろ飛ぶが如く去るかのう・・・。
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